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[そこからは、ほとんど機械的な作業だった。
マネージャに報告し、早退させてほしいと伝え、夫の職場と息子の幼稚園にも連絡を入れた。近くに住む義理の姉にも連絡を取り、息子は暫く預かってもらえることになった。
それから、制服のままコートだけを羽織り、とるものもとりあえずタクシーに飛び乗る。
病院の名を正しく伝えたかどうかは、覚えていない。途中、運転手が何度も道順を確認してきた。それでもどうにか、病院までたどり着いた。
病院の入り口で、白衣の若い医師と、追い越しざまにぶつかりそうになり]
あ…
す、すみません、大丈夫ですか、申し訳ありません
[転んだわけではないし、多分、大丈夫だろう。
深く一礼して、しかしすぐさま背を向けて、沢渡は駆けていった。]
当直室
[ほんの少し砂浜を歩いただけだと言うのに、息切れしていた。
動悸が酷い。けれど今は、手の中の人形を綺麗に直すことで頭がいっぱいだった。
だから、入口でぶつかった女性の焦燥の理由にまだ、気づけていなかった。
人気のない当直室に戻り、給湯室で人形を洗い清める。
顔の汚れを丁寧に拭うと、セルロイドの肌が綺麗に甦った。
服を乾かし、化学繊維でできた髪を整えると、田中が抱いていた時と変わらぬ輝きが、戻ったような気がした。
田中が、逢えぬ孫と同じくらい大切にしていた人形。
肌地に描かれたその瞳を暫し見つめ、軽く瞼を伏せる。
僕が持っていてはいけない――
自分が持っていたら、人形を、田中の希望を穢してしまうような気が、していた。
誰に委ねるべきか。思案しながら、病棟へと向かった]
[朝、病室を訪れた看護師が千夏乃の様子がおかしいことに気がついた。毛布の中で小さく縮こまって、ぐったりと動かない。その身体は異様に冷たくなっていた。
両親だけが知らされていたことだが、千夏乃の身体はもう、仮に手術をして成功も成人を迎えられる可能性は低い、というところまで来ていた。しかも、手術をすることで、彼女は今までの『千夏乃』でなくなってしまう可能性も、あった。
急に態度を変えては勘の鋭い娘のことだ、何かがおかしい、と気づいてしまうだろう。十四歳の子供に知らせるには、あまりに残酷な話だ。だから、両親は極力普段どおりに接していた。
悩んだ末、両親は千夏乃に手術を受けさせることにした。今は状態を見ながら、いつ行うかの最終調整の段階だった。
そんな折の急変だった。]
314号室
千夏乃。聞こえる?
ねえ、お願い。目を覚まして。
[原因は不明。ここ数日は本人の体調不良の訴えもなく、事実各種検査の数値も非常に安定していたはずだった。
ひょっとしたら、このまま快方に向かってくれるなんてことはないだろうか。三日前、面会に行ってきた夫と、そんな話もしていた。
いくつかの機材が運び込まれ、娘の身体に繋がれていく。母はそれを祈る思いで*見つめていた*。]
[あてもなく、人形を託すべき人間を探す為にエレベーターではなく階段を使用した。
動悸がやけに酷い。落ち着ける為、幾度か手摺に捕まり呼吸を正す。
その間、廊下の奥手から看護師の会話が聞こえて来た。
『小児科の、チカちゃん』
『そう、元気だったようだけれど、昨夜急に……』
三つ編みの似合う少女の顔を思い描く。
今まさに、生死を彷徨っているところだと、鼓膜へ伝う。
人形を手にしたまま、背筋を伸ばした。
田中と沢渡に接点があったのかは解らなかった。けれど、彼女ならばきっと、田中がそうしていたようにこの人形を大切にしてくれるだろうと、咄嗟に感じた]
[314号室には医師や看護師が集まっていた。医療機器を運ぶ技師達の不思議そうな視線をよそに、母親らしき人物へと近づく。先程、擦れ違った人物だった。]
沢渡、さん……
[寝台に横たわる沢渡の頬には血の気が感じられず、まるで精巧な人形のようにも思えた。
胸の奥に、ちり、と痛みが走る。]
沢渡千夏乃さんの、お母さんですか…?
もし、良かったら……、この人形を、……彼女に託しても、良いでしょうか…、
[努めて平静を装うも、息切れて掠れた声音で女性にそう*告げた*]
[病室の入り口近くで、近づいてきた医師に目を留める。
先刻の若い医師だと気がついて、ゆっくりと会釈をした。]
ああ、先程の…。
はい、千夏乃の母です。
[初めて会う医師だったので、娘の名を呼ばれてすこし、驚いた。どこかで関わりがあったのだろう。
差し出された人形には、不思議そうな顔をして]
人形、ですか…?
[古いタイプのプラスチックの人形。子供の頃、こんな人形を持っていた記憶がある。]
[沢渡の傍に佇む母親へ、浅く会釈を返す。
驚いた様子は尤もだった。横たわる沢渡を一度、見つめる。
そういえば彼女も、いつも同じぬいぐるみを抱き『弟の次に大切だ』と言っていたのを、思い出した。]
この人形……、奇跡的に、……戻って来たんです。
沢渡さんならきっと、大切に、してくれると思いまして。
……元気になるように、…願掛け、染みたものですが。
[さらり、金色の人形が零れ落ちる。
そっとそれを母親へ差し出した。]
……きせ、き。
[その意味はよく解らなかったが、元気になるように、という言葉の意味は、理解できた。そして今の彼女にはそれを反芻する余裕は、なく。]
ありがとう、ございます…。
[ほとんど反射的に人形を受け取って礼を述べ。]
[反芻される『奇跡』の言葉。
奇跡に頼る他無い現状を課せられた少女の運命が、余りにも酷だった。
母親へ人形を手渡すと、これで良かったのだ、と安堵する心が存在した。
母親が少女の傍に人形を置いてくれたなら、酷く穏やかな表情でその光景を見つめただろう。
人は死んだら、そこで生涯を閉じる。
霊魂になって生者を見守ったり、天国へ向かう、という思想は持ち合わせていなかった。
けれど、せめて。
この病院で起こったすべての死に誘われた者達が、残されたこの少女が淋しくなければ良い、と。]
『柏木先生、急患です。応援をお願いします。』
[不意に背後から耳打ちされ、我に戻る。]
申し訳ありません、――僕は、これで。
[沢渡の母へ会釈し、一階へと*戻っていった*]
[そうしてまた、不安げに娘の方に向かう。
最後に話をしたのはいつだっけ、何と言って、別れたのだっけ。記憶を探る。努めて明るく、普段通りに。娘を不安にさせないように。
ああ、そうだ。退院したらどこに行きたい?なんて、そんな話をしていた。]
『今年は海に行けなかったし、また、みんなで海に行きたいなあ』
[千夏乃はそう言って、「 」いた。
そんな小さな望みが叶わないなんて。そんなことがあるはず、ない。]
[やがて夫も病室に駆けつけ、時を同じくして千夏乃を乗せた寝台は数人の看護師たちによって運ばれていく。沢渡夫妻は声を失ったまま、その後を追い。
それが、かろうじて生きている娘を見た、最後になった。]
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