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朝:603号室の前
[仮眠は全く取れなかったけれど、朝は静かにやってくる。
朝食も録に喉を通りはしなかったけれど、ビタミン剤と栄養剤の注射を打った。
それから、父の形見の腕時計を一番近くの時計屋へ修理に出した。
古い舶来品故に部品が上手く噛み合わないかもしれないとの返答に眉根を寄せたが、夕刻までに結果が解るとの反応に、ほっと安堵の息をつく。
院に戻ると書類作成や引継ぎを終え、回診へ。
603号室の担当医は公休の為代理だ。
昨日、様子を見に来れなかった事もあり、自ら進んでこの部屋を訪れた。]
黒枝さーん、入るよー。
[思春期の少女の病室は、特に注意して扉を開くことにしている。
返答が無ければ最後にしようと、今はその手前で*佇んで*]
[冬のはじめ、午前6時。風は今日も強い。
ガタゴトと鳴る窓の外には低い雲が垂れ込め、海の色はわずかに深く。
カーテンの中、千夏乃は夢うつつでどこかから聞こえる歌を聞いていた。透き通った、どこか懐かしい歌声。あれは誰の声であったか。思い出せない。
不意にがたん、と一際大きく窓が鳴って、千夏乃の意識は急速に微睡みから引き戻される。
辺りは白、白、白。
ここはどこだっけ、と、一瞬*考えて*]
…そっか、わたし、入院したんだっけ。
朝
[眠りに落ちる刹那、ああ、オトハの声だ、と気づいた。病院で聞いたよりも、CDで聞いたよりも。ずっと美しい妙なる調べ―――]
ん、………ふぁああ
おあようございます…
[朝。大きな口をあけて看護師に挨拶をした。何度目でも、入院最初の朝は慣れない。家にいる時の生活リズムが抜けきらない。
熱を測って、血を調べて。今日の検査予定をぼんやりと聞いて。朝食までの空いた時間、ベッドに横になってうとうとしていた、が]
………ん?
結城せんせ…、ちょぉぉっと待って!!
[飛び上がるようにして靴を履き、ベッドを適当に誤魔化した。髪を撫で付けて、入室を促す。さっきは寝ぼけ眼で顔を洗ったから、後ろ髪がハネているが気づいていない]
3階・314号室→談話室へ
[なんだか喉がかわく。辺りはもう、冬の空気だ。
千夏乃はそっとベッドを抜けて、羊を抱えて忙しそうなナースステーションを横目に見ながら談話室へと向かう。見咎めた看護師には、お水飲むだけ、と答え。]
3階・談話室
[誰もいない談話室。誰かが消し忘れたのか、薄暗い部屋の中、テレビだけがチカチカ光っていた。
千夏乃は明かりを点けてマグカップに湯を注ぎ、いつもの窓際の席に座る。]
[ミュートされたテレビの音量を少し上げる。
流れていたのは全国チェーンのスーパーのコマーシャル。もうずっと前に亡くなった歌手の、オーボエの音色のような耳に残る歌声。
夢の中で聞いた歌を思い出そうとしてみたが、なんだか頭にもやがかかったようで、思い出せなかった。冬の朝の空気のような透明度だけが記憶に残っている。]
"ききたいな あなたのうたを"
"冷え切った心 あたためるミルク"
[口ずさむのは、母の大好きな歌の一節。
そうしながら、羊の縫いぐるみを抱きしめて、顔を*うずめた*。]
[午前の院内は人々の活気を肌で感じ取れる。
カルテを手にした左手の手首を一度軽く握り、603号室へノックと挨拶を送った。
聞こえてきた元気な少女の声、慌てふためいた様子は扉を開く前から目に浮かぶようで、沈んだ心に生気を与えてくれるようだった。]
もういいかな、入るよ。
[促され、静かに扉を開いて「おはよう」と微笑んだ。少女の顔色は悪くない、後ろ髪がはねているなんて、患者ならば常の事、寧ろかわいいアクセントに映った。
もしかすると少女は出迎えてくれたのだろうか。寝台近くに佇んでいるのなら、そっと肩へ触れて寝台を示し]
横になってて良いんだよ?
それとも、寝てるのももう、飽きたのかな?
病院へと至る道
[その日の午前中。
彼女はいつものように、通いなれた歩道を歩いていた。
少し離れた場所には病院が見える。
この交差点を過ぎれば、建物が影になって見えなくなってしまうだろう。]
[今日は何を歌おう。
そんな事を考えながら、警備員の男性へすれ違いざまに挨拶をする。]
こんにちは。
いつもお疲れ様です。
[ぺこりと頭を下げて、返事は確認しないまま再び歩いていく。
これはいつもの事。
健常者ならまだしも自分と挨拶を交わすという事は、間違いなく彼の仕事を邪魔する事になってしまうのだから。
だから、その時点では彼女は気付かない。
彼が決して返事を返さないという事には、気付かない。]
中庭
こんにちは。
[昨日も会った老女の姿を見つけると、挨拶の言葉をかける。
ベンチに座った小さな老女は、更に小さな腕の中の人形に話しかけていてこちらには気付いていないようだった。
けれど、それも気にするそぶりもなく、邪魔をしないようにか少しだけ離れて。
空を見上げた。]
―朝―
[気が付けば朝だ。外から歌が聞こえてきた気がした。
一人の部屋は寂しい。無菌室という場所だから、仕方がないのだけど。]
誰かお見舞いとか来てくれるといいんだけどなあ
[窓の外の海を見ながら、そう呟いた。5階の窓から見える景色はなかなか綺麗なのだけど。]
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