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時計………
[手を伸ばして、触れる直前で止めた。硝子盤の欠片が周囲に飛び散っている。剥き出しになった文字盤もひびが全体に入って、持ち上げたらぽろぽろと崩れそうだった。
ベルトは傷だらけながら形は保っていて、改めて手を伸ばし、掴んだ]
…っ 冷たい
[やはり文字盤は半分ほど崩れ、中身が見えてくる。精巧な作りだ。こぼれない様両手を使って、目の前まで持ち上げた]
……綺麗なのに
[こうなる前から壊れていたことは知らない。未だ自分の腕時計を持ったことのない少女は首を傾げ、破片の大きいものを拾って掌で包み込んだ。
それを枕元に置いて、その日は眠りについた。カチコチ、カチコチ――聞こえるはずのない秒針の音が夢の中で響き渡っていた]
朝
[今朝は珍しく看護師が来る前に目が覚めた。カーテンを引いて、窓を開けた。ベッドに戻り、枕元の棚の上、ハンカチの上に置いた時計をぼんやりと眺めていた。
虹はもう消えかかっていて、少女の目には留まらなかった]
ええ。
きっとこんな風に、世界を見守ってる。
[『死』という単語を口にしなかったのは、圧倒的な存在間のある絵画を前に、思い浮かばなかっただけなのかもしれない。
オトハの死は恐らく、そろそろTV等で報道も流れている可能性も。尤も、柏木がそういった情報に興味があるのかは謎なところで。]
そう、ですか。
[生命力に溢れる色の洪水。こんな風に、柏木の世界は拡がっているのだと、確認し。「そして」と途切れた矢先、軽く首を捻る。
けれど次第に、絵画に見惚れるように綻ばせていた頬は無へと変化を遂げていった。]
ねえ、柏木さん。
僕、『怖いもの』から逃れる方法、思いついたんですよ。
[視線はキャンバスから、室内をぐるりと眺めるように這う。
他の作品のひとつひとつをじっと、眺めていて]
なおらないかなあ
[検査の関係で今日は朝食をとることが出来ない。伸ばした指で、時計の残骸をつつく。人差し指に小さい傷がついても気づかずに、もう一度毛布の中に潜り込んだ]
こういうの得意な人、いないかな…
おばあちゃんとか
あと男の子ってこういうの得意かな
あと…
[絵を描く人。もしかしたら、彼ならば、直せるかもしれない**]
[ふと結城が口にした、前日の話に続く言葉に、男は其方へ顔を向けた。帽子をほんの僅かだけ上げ]
……
怖いものから、逃れる、方法。
それは、一体?
[先を促すように、問いかけた]
[柏木が帽子の鍔を、ほんの少し持ち上げて興味を示した。
微かに瞳を細め、口角を弓なりに引き上げ柏木を見つめる。]
……何も、感じなければいいんですよ。
世界に色を感じず、灰色の世界で生きる。
[尤もこれは、己の『怖いもの』から逃れる方法でしかない、故に柏木の『それ』に使えるのかは謎であり。
けれど、自分のそれと柏木のそれが、同一のものであると何時しか思い込んでいた。]
何にも固執せず、執着せず……、
そうすればきっと、……痛みは感じなくなります。
[それは単なる逃げ、でしかない。気づけては、いないのだけれど。]
……、何も感じなければ。
灰色の世界で。
何にも執着する事なく。
[結城が紡ぐ言葉を復唱するように呟く。目の前の人物は、何を恐れているのか。その恐れは、己の恐れとどれ程重なるものなのかと、考えながら]
……そう出来たら。
そうですね。
それはきっと、救われるのでしょうね。
[何も感じないようになれたのなら。
執着を失えたのなら。
そうして、]
……
[一たび沈黙し、結城を一層見据える。立体視でもするかのように焦点を揺らし、それ以上に、意識を撓めていく。努めてそうすると、ふと、結城が色を――鮮やかなそれを失ったかのように、見えた。
周囲と共に灰色になったかのように、見えた。
そして、]
――っ、
[息を、呑んだ。
その面が歪み、笑う唇が、赤く染まったように、見えて。いつも描く人間のように。笑みが歪んだかのように、見えて]
ち、がう。
違うと、思っていたのに。違う?
違わない、んですか。
やっぱり、貴方だって、……
[男は、掠れた声で、唐突な、支離滅裂なような言葉を零した。がたり。背凭れの付いた椅子が揺れる。椅子から滑り落ちるように、男は床に尻をついた。傍らに椅子が倒れ、大きな音を立て]
[己の告げた言葉を復唱する柏木が、まるで機械のように思える錯覚。
――ぞくり、無機質な反応に、微か背筋が震えた。
灰色を望む癖に、今度はその灰色を怖れている。
弱い自己に気づいてポケットの中の指先を、強く握り締めた刹那。]
―――…、
[空白。
柏木の沈黙を静かに見守った。不意に紡がれた『違う』の言葉に、床へと崩れる様子に驚き、咄嗟に身を屈ませ]
……柏木さん、―――…え? ちがう、って……、
[その背を支えて身を起こそうとし。反対の手で倒れた椅子を正していく]
違う、って……、何と、です?
この間も、言ってた気が……、
……貴方だって、あいつらと同じで……
貴方だって、あいつらで。
やっぱり、皆、あいつらなのかもしれない。
皆、そうなのかもしれない。
[ぶつぶつと呟きながら、両手で帽子の唾を押さえ込むように掴み握る。背中を支える手を離そうとするように、身を捩り、片方しか動かない足で後退ろうとし]
……やめろ。
来るな。
俺を、見るな。
[震える声で零し、俯きながら顔を覆った。男は明らかに平常ではない、極度の興奮状態にあった]
[――「笑うな」
そう紡いだ言葉は――音にはならず]
[支えようとした身体が、僅かづつ逃げていく。
豹変した柏木の様子に驚き、自由の利かぬ身で牙を剥くかの姿に一瞬、たじろいでしまう]
柏木さん……?
『あいつら』、って……、
[柏木は全身で己を拒絶していた。否、怯えていた。
常の穏やかな語り口調とは異なる声色で、己を通じて『なにか』を、それに対する畏怖を思い出してしまったのだろう。
平静を取り戻させなければ―― 咄嗟に、柏木の頬を軽く、平手で叩こうとし]
……ごめんなさい、あの……、
僕は、『違い』ます。 ……落ち着いて、ください。
[頬を叩かれれば、男は一たび動きを止め、眼前の姿を見据えるようにした。少しくずれ傾いたサングラスを、震える指先で押し上げ]
―― ……俺、は。
私は……
[ぽつり、ぽつり、呟いて]
……、
何、でも……何でも、ないんです。
何でもないから。気が付かなかったから。
私は、気が付いていませんから。
気が付かなければ。平穏なんです。
あいつらは思い込むのを看過するくらいはしてくれる。
[呟きながら少しく床を這い、ベッドに這い上がろうとした。結城がそれを助力しようとしたなら、再度拒みはしなかっただろう。
彼の事を恐れるような気配を残してはいながらも]
[軽く頬を叩いた後も、柏木の混乱は見て取れた。
それでも次第に常の彼を取り戻すかの様子に気づくと、脱力したように下方へと零れ落ちて]
それがあなたの逃げ方、……なんですね。
ごめんなさい、……勝手にね、……僕と同じなのかなって思い込んでたみたいで。
[きっと、柏木の背負っているものはもっと大きなものなのだろう。或いは『追われていると思い込んでいる』のかもしれないとおぼろげに、勝手に憶測していた。
寝台に這い上がろうとする彼を支え、自分も立ちあがる。
畏怖の気配が何故か少し哀しくて、眉尻を下げた。]
僕、あなたの絵は良く、解らないですけど……、
こんな色合い、好きですよ。
こんな世界に見えていたら良かったのに、……そう思います。
[寝台から距離を取り、微かに微笑んでそう告げる。
引き止められなければそのまま、部屋を出ていこうと]
[ベッドの上に登り、男は改めて結城の方に顔を向けた。すみません、とも、有難う、とも、それらの言葉が頭を過ぎってはいても、口にする事までは出来ず]
…… 空が。
空が綺麗な日だったら……
今度こそ、大丈夫な気が、するんです。……
[代わりに、そう、二言三言の言葉を紡いだ。外に出ようとするのを、引き止めはせず]
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