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よっ、と。
[弛緩しきっていた身体を、ぽんと跳ね上げ。
まだふわつくままに、立ち上がる。]
そうそう、できることじゃないものねェ。
[白い服の懐、巻いた青いストールの下。
忍ばせたものの感触を確かめて、口角を上げる。
鼻歌まじり、息絶えた女のもとへ寄った。]
[こつり、こつり。
狭い道に、足音はよく響いた。路地裏は、長く続いた。長く、続き過ぎた。幾ら進んでも、幾ら曲がっても、何処までも路地裏が続いていた]
…… は。
[振り向く背後も、進んでいた前方も、全く変わらず、ひたすらに狭く薄暗く]
ごめんね。
みィんな、行っちゃったからさァ。
[首を裂かれ、床に倒れた女の襟元を正す。
椅子に座らせるのはやめた。壁に凭れかからせるように、上半身だけを起こさせた。]
じゃァね。
さよなら。
[無情にも死を齎された彼女の、まだやわらかな唇にそっと触れ。
そのまま、自分の唇を重ねた。]
[こつりこつり。かつんかつん。
響く足音。通りの向こうに見える人影]
あらぁ…
あのお店だけが、世界なのかしら
あのお店と あの、なんだったかしら
[あの、鳥。
道の向こうでこちらをじぃ、と見ていたあの。
ああ、あの軒下もなくなっていた。
ひとつずつ、なくなっていった]
[たっぷりと何秒も、そのままでいた。
抵抗はされない。当たり前だ。
唇を舌でなぞっても、そのまま無理矢理に割り開いて口内を求めても、彼女が動くことはない。
首の傷が喉を貫いて回ってきたのか、それとも自分の舌を噛み切った血がまだ止まっていないのか、生臭い血臭が口吻に混ざる。]
……不味。
[ようやく彼女を解放して、はじめに言ったのはその一言。]
やっぱァ、キスは生きてる女のがいいかも。
これ、借りてくね。
[カウンターの隅の隅。
まだ血に濡れてぬらぬらと光るナイフを、拾い上げた。]
じゃ、今度こそ、さよなら。
運が悪ければ、またね。
[くすくす、とまだ酔い残るままの笑みをこぼしながら、ゆらぁり、と、ひとりと彼女きりだったバーを、ようやく後にする。]
あ。
洗ってくれば、よかったなァ……
[投げられて、血濡れた身体。
赤いナイフ。それを拾った手。
バーというものは水分には事欠かないものだから、洗うには困らないはずだ。]
ま、いいか。
[そうして、上機嫌のまま、歩き出す。
時々、なんとなく走った。]
[知らない場所だ。それには気づいていて、走っていた。
バーを出たその先が知らない場所であること、それ自体はさすがのこの男でも気にしたのだが、帰せと騒いでどうなるとも思えなかったし(マスターもいないしね)、何より知らない場所は大の好物なのだ。
あちらこちらの路地や曲がり角やそこいらの建物の窓やらを覗きこんでは、とにかく何かの手がかりを探そうとしていた。]
〜♪
[それはもう、極上の白砂糖と出会ったみたいに気分のいいことだ。]
[小脇に抱えた小さなバッグ。
ハンカチと化粧道具と]
どうしよう、かしら
[ナイフひとつ分軽くなったバッグ。
同じくらい重くなった帽子]
う、 げ
[この状況に相応しくない、極めてのんびりとした声音に、いやそれ以上に、その声に似合わないあまりの惨状に、潰れた蛙のような声をあげた。]
なんもねえよ。
俺にはもう何がなんだか、わかんねえ。
[しゃがみ込んで頭を抱え。
深く、溜息。]
しかし何してたんだ、お前。
まるでお前が殺したみたいに、なってんぞ…
[眼鏡を見上げる格好で顔を上げ、ウルフ(もう注釈は要らないかと思う)は半ば呆れた口調で、呟いた。]
人と会ってそういう声はよくないと思うんだけどなァ。
[笑みをほんの僅か濁らせて、ウルフを見やる。
たまには機嫌を損ねることもある。]
何って、何もしてないよ。
待ってても誰も戻ってこなさそうだから出てきただけ。
[お前が殺した、と言われれば、眼鏡の奥の瞳をきょとんと。]
んん、半分あってる、半分外れ。
もしくは未来予知?
[顎に手を当て、思案顔。
まだ殺してはいないので、間違ってはいない。]
だってあのお兄さんさァ、わざわざ血溜まりの中に投げるんだもんさ。
白い服の人間をだよ? 信じられる?
[それだけでなくて、血濡れた彼女の姿勢を直したりだとか、膝ついてくちづけしたりだとかの赤もあるのだけれど、まあ彼女の命の色には違いない。]
でさ、そんなことより。
ちょっと付き合ってほしいんだけど、いい?
[誰でも、よかったのか。
いや、ウルフがよかったのか。
その裏側に刃を隠しながら、またにっこりと笑みを作った。]
んだ?探検でもすんのか?
ここを?
[よ、と反動をつけて立ち上がる。
眼鏡を見下ろしながらポケットを探り煙草を取り出して]
あ、要るか?
探検っていうか、実験。
[酔いは回りやすく醒めやすい。
酩酊感や呂律の危うさはもう無いが、かわりに興奮に酔いそうだ。
つとめて、素を保つ。]
煙草は吸わないから、いらない。
けど……他のものが欲しいかな。
[こっち、と細い裏路地に入っていく。]
そうだっけか。
[眼鏡(実は名前を聞き逃していた)が煙草をやるかどうかは、知らない。記憶にない。「いつも目にしていたはずなのに」。
俯き気味に歩きながらマッチを擦り、くわえた煙草に火を点けた。独特の燻る臭いがする。]
……で、なんだって?
[マッチを後ろに放り投げて、ウルフは顔を上げた。]
そうだよ。
[煙草をやるのやらないのを彼が覚えていないことを、不思議には思わない。
自分だって、彼の名前すら覚えちゃいないんだから。]
ねえウルフ。
ウルフはさ、誕生日を覚えてないって言ったよね。
だからさ、だから、今日を忘れられない日にしようよ。
[路地を、ゆっくり行きながら。
ぽつぽつ言葉を落としていたら、袋小路の、どんづまりまで来てしまった。
行き止まりだとは思っていなかったけど、好都合。]
ボクにとっても、キミにとってもだ。
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