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[皺の中にぽつねんとあるような、老婆の眼は結城医師の笑みにそっと柔らかな眼差しを注ぐ。一回り以上、下手したら四半世紀以上も年の離れた相手に、医者としての――命を救うものとしての敬意を向けながら、同時に遠く離れた伴侶をも思い描き]
いいえェ、孫ならよかったんですがねェ……。
もォ、それこそ――はて、幾つだったかな、会えてないんですよう。
代わりにね。
この子がさっきから食べてみたいって。
[ンフフ、ともう一度くぐもるような笑いを零した。この子、と指したのは紛れもなく腕の中の。金色の化学繊維を静電気でふわりと浮きだたせたセルロイド。医師の内心にちらりとでも過ったことを知らず、心持、持ち上げた。]
ありゃ、先生、お昼ですか。
[ハムサンド、結城医師とを比べるように見]
先生、医者の不摂生てェ言葉……当てはまっちまいますよう。
人助けする大切な体なんだァ、大事にしないと。壊れっちまいますよォ。
[入った時と同じく、背中で扉が閉まるのを聞く]
それならやっぱり
見たかったなあ……
[不安は不安で押し流せるのか。それとも増幅させるだけなのか。試してみたかったと、歩き出したその表情は、俯きがちで少女自身にもわからない**]
[祖父母という存在に恵まれたことが無かった所為か、老人をみていると無条件に心がなごむ。けれど『患者』という面から見れば厄介な存在でもある。
免疫力の低い者が多く、風邪ひとつこじらせても命取りになる場合が多い、赤子にも同じだ。
人は歳を取れば取るほどに、庇護欲を駆り立てるかの如く、こんな風に可愛らしくなるのかもしれないとぼんやりと感じた。
その思いは、続く田中の言葉を受けてより、強くなった。]
こ、この子、が……、
そうですね、彼女なら、餡子よりはチョコの方が、似合うかも……、
[後者はぼそ、と、笑いを堪えて呟いた。
馬鹿にしたつもりなのではなく、『可愛いおばあちゃんだなあ』という思いからつい笑みが溢れてしまい]
[『不摂生』の響きを聞き取ると、困惑するよう眉根を下げた。無礼にも、少し痴呆が入っているのかとも感じていたけれど、意外としっかりしていると記憶し]
大丈夫ですよ、こう見えても僕、割と頑丈なんです。
壊したくても、中々壊れないんです。
[そのままレジへと歩みを進めて、傍らにあった小箱入りのチョコレートを手に取った。以前、口の中でとろけるように美味しいのだと、看護師が話していた小包装の四角いチョコだ。
サンドイッチと一緒に会計し、別に袋に入れて貰い。田中へそっと差し出した]
これ、美味しいらしいんで……、良かったらそのお嬢さんと、どうぞ。
[老婆の頬にはほんの僅か、色が差した。生白い皺の中に生じたそれは一目には見にくいものであったが、医師の笑みによって引きずり出されたものであるには明白だった。
口元を綻ばせて、人形持たない手を添える。揃えられた指先の、血の気のない白い爪先が薄い唇の半ばを隠した。]
そんなこと言っちまってると、今に倒れた時に笑われちまいますよぅ。
早いうちにお嫁さん捕まえて、毎日愛妻弁当作ってもらうのが一番さァ。
[そういってはまた、くすくすと女学生の笑う声のような――ただしそれよりも幾分か古びれた声音を震わせる。]
[レジに向かうその背に隠れるように、ねェと腕の中の人形と目を合わせていた老婆に、差し出されるのはビニル袋。と、その中の、小さな四角だった。]
――あんらァ……、
[小さな目を精一杯開き、その中身と医師とに視線を走らせた後、そっと手を伸ばした。]
こんな婆ちゃんたちに。
あらあらあら、あらァ……。いやァね、男前の先生ったら、やることも男前じゃあ
本当、うちの爺さんの立つ瀬がないよォ
[にこにこと何処か生娘のような恥じらいを頬に浮かべながら受け取った]
いつかお返しちまわなきゃァねェ、ふふ。ふふふ。
午後・3階、談話室
[昼下がり。低くなり始めた太陽はやわらかく温かな日差しを投げかける。
千夏乃はそわそわと落ち着かない。
もうすぐ、父と弟が見舞いにやってくる。]
まだかな。
[ノートを広げてはいるものの、そこには落書きばかり。]
[存在自体が愛らしい、と言っても過言ではない目前の老婆が、他の患者――主に歳を召した女性に多い――と同じ台詞を口にした。
またか、と感じる程度に耳にする言葉は此方を心から気遣ってのものなのだろうけれど、少しばかり表情を翳らせた。]
それが出来れば、ね……
田中さん、僕と結婚してくれます?
[勿論冗談なのだけれど。此処から見合いはどうだのと本気発展する場面が多い為の、回避策であったり。
少し屈んでチョコの入ったビニル袋を差し出すと、想像以上に喜ばれてしまい、恐縮してぽり、と頭を掻いた]
……旦那さんには内緒にしておいてくださいね。
お礼なんていいですよ、……じゃ、僕はこれで。
[『男前』などとおだてられてつい、ふざけた一言を付け加えてしまう。幾つになっても女性は女性なのだなあとぼんやり馳せつつ、田中に手を振って売店を後にした**]
[優男と評したその顔に影が差すのを、老婆の眼が認めた。老婆の顔面に刻まれた皺は笑みの形に目元に、口元に集まる姿を崩さぬまま、その眼の色合いだけをわずかに変えた。]
おやまァ、死に掛けの婆さんでよけりゃ喜んで、ねェ。
男前に声かけられた なんて知られちまったら
おおこわ、嫉妬が怖いですよう。
[遊びのような言葉に返すのは同じような温度の、けれど頬の赤味は添えたまま。]
ありがとう、ありがとうねェ……
午後からもお勤めいってらっしゃい……
[手の中のビニル袋、手を振ればかさかさと鳴いた。その音を添えながら医師の背を見送り]
[なんとなく空が見たくて、途中で珈琲を購入して屋上へ上がる。
少し肌寒さを感じるけれど、雨上がりの清々しい空気が心の洞を埋めてくれるようだった。]
ふふ、田中さん……、ほんと、いつも可愛いな。
[先程の遣り取りを思い出しつつ、サンドイッチを頬張る。レタスが水分を失って、余り美味しくは感じなかった。
無理やり一枚だけ口腔へ押し込み、残りをゴミ箱へと放る。
温かな珈琲を啜り、空を見上げた。
『空が綺麗な日だったら……
今度こそ、大丈夫な気が、するんです。』
昨日の柏木の言葉がループする。
気にはなっていたけれど、昨日の今日で正直、バツが悪い。また、怯えさせてしまうかもしれない。
どうしようか、思案しつつ柵の下――昨日時計を捨てた辺りへ視線を落とす。
壊れた時計はもう、無かった。
清掃業者が回収したのだろう。そのまま暫し瞑目し**]
[それから。
緑茶に合うだろうものを見繕い、いくつかレジにおいて、また他のお菓子の大袋をカウンターに追加し。店員がいぶかしむような目を向けても、にこり、と皺を一層寄せた顔を見せていた。]
[小さな、お菓子一つしか入っていないビニル袋を人形と同じように胸元に抱え、さまざまな菓子類――それこそチョコレートや和菓子など雑多に入っていた――のビニル袋を手から下げ、老婆はエレベーターに乗り込んだ。
彼女の最終目的地は、空が見えるところであった。けれど。]
あァ……、 あたしったら。
緑茶持っていこうと、持っていこうと思ってたってのに。
お菓子だけ持っていくつもりだったのかねえ馬鹿なことをしちまって。
あ、ちょい、ちょいと……止まっておくれよぅほら。
ほい止まった。よしよしいい子だ。降りるから動くんじゃないよォ。
[途中下車を選んだ老婆の姿は、3階に転がるように躍り出た。
談話室の緑茶を、買っていこうという魂胆だった。]
[頬杖をついて、テレビを観ているそぶりで。しかし、キャスターの声も、コメンテーターの声も、まったく頭に入ってこない。と、]
『チカノちゃん。お父さん来たよ』
[ステーションから若い看護師が顔を覗かせた。千夏乃は跳ねるように椅子から立ち上がり]
[肩まである髪を後ろに束ねた長身の父。モス・グリーンのジャケットとチョッキがよく似合う。
2週間前に会ったばかりなのに、もう懐かしく感じる。]
……おとうさんっ!
[千夏乃は駆けだして、父親に飛びついた。
モス・グリーンのジャケットから、懐かしい匂い。]
『良い子にしていた?チカノ。
お母さんが、残念がっていた。職場のひとが急病で、ピンチヒッターだったんだって。次のお休みには、必ず行くから、って。来週は私も同じ日にお休みだから、皆で居られるね』
[父は少し屈んで、娘の頭を撫でた。
千夏乃は良い子にしていたかな、と自問して、『概ねイエス』という結論を出し、頷いた。]
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